ワインの味わいというのはどの程度意識的にdesign或いはarchitectできるものなのか?
去年最も印象に残ったワインの中の一つ、Colgin 1992を飲んだ時に頭をよぎったのがこのことだった。
多くのワインメーカー達が口を揃えて言う台詞に「ワイン作りの殆どは畑で終わっている」というのがある。悪く言うと、ドカンとボールを打ち上げといて「行き先はボールに聞いてくれ」というような、ちょっとJohn Daly(失礼)的印象を与えかねない言葉だ。しかし、一流と言われるワインメーカー達は単に飛距離だけではなく、タイガーウッズ的に精緻なボールコントロールにも喩えられるような味わいの表現で、我々を魅了してくれる。
しかし、自然を相手にしている以上、タイガーウッズとて強風に流されるボールを見つめつつ「行ってくれ」と祈る瞬間が皆無ではないのと同様、たとえ一部で「人工的」「画一的」と揶揄されがちなワイン作りであっても(そうで無い場合は尚更)「ブドウに聞いてくれ」的側面を皆無に出来ないのは言うまでも無い。
ところが、このワインを飲んだ瞬間に連想したのはタイガーウッズ的ボールコントロールどころではなく、誘導ミサイルがピンポイントに定めたターゲットに向かって飛んで行くようなイメージだった。「アタックがE-3で余韻がF-6ですから、そこに至る中間部は4.2deg/secで8秒間テーパリングしておきました」という風に味わいを「作った」のではないかと思ったのだ。
実際に、そんな「作りこみ」が可能だとは考えられないし、そのような意図すらそもそも持っていなかろうとは思うのだが、余韻に至るまでの過程にこれほど「隙が無い」ワインを飲んだことが無かった故に抱いた印象だった。
すごいワインであるのは間違い無いが、値段もすごい。今楽天で検索したらなんと98000円の値札が付いてました。
改めまして、Yさんご馳走様です。
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昔「夏子の酒」を読んで知ったのだけど、杜氏さんが酒を仕込む際には「設計図」を書くそうです。
その時はとても違和感があったのだけど、このアーティクルを読んでその事を思い出し、なんだか納得してしまいました。