死刑囚のパラドックス

| コメント(2) | トラックバック(0)

死刑囚のパラドックスというのがある。
いろんなバリエーションがあるが、大体こんな感じ。
裁判官が死刑囚に言いました。「あなたを今週金曜日までに処刑します。但し、処刑当日になるまで処刑日が分からないように執行されなければならないものとします。」
死刑囚は考えます。金曜日が来れば処刑は金曜日にしかできないことが分かってしまうので、金曜日には処刑はできない。となると、死刑執行可能な最終日は木曜日になる。が、木曜日になると木曜日に処刑されることが確実になるので、木曜日にも処刑できない...こうやって全ての曜日の可能性が排除され、死刑囚は結論付ける。「この俺を金曜日までの予期しない日に処刑することはできない!」
処刑されるはずがないと自信満々の死刑囚にある日裁判官が告げる。「おまえを本日死刑に処する。」

この話を取り上げたのは、死刑囚のロジックのどこに誤りがあったかという論理学の問題を論じたいからではない。この死刑囚の置かれている状況が、現在の多くの日本人の置かれている状況を良く表しているのではないか、ということが言いたいのである。

終身雇用から始まって、幼稚園お受験に至る、長い長いフードチェーンが死刑囚の金曜日、木曜日...という発想にそっくりではないかと言うことだ。この発想こそが、昨今の日本の沈滞、地方都市の沈滞、荒れる若者たち、という諸問題の元凶の一つではないか、ということである。死刑囚のロジックが正しいとすると、しかるべき幼稚園に入った瞬間から一生安泰なのである。安泰な方はいいとして、安泰になれなかった方はどうなるのか?死刑囚のロジック的世の中ではそういう人は一生浮かばれないのである。但し、浮かばれる人と浮かばれない人が出来ることがいけないと言っているのではない。これは、どのような健全な世の中でも必然的に起こるものなのだ。だから、これを回避すべく、徒競走に着順を付けないだの、ゆとり教育とか言って円周率を3に丸めるだのと言うのは愚の骨頂である。問題の本質は一生に1ゲームしか戦わないシステムにあるのだ。1ゲームしかないということは、勝率10割の人と勝率0割の人しかできないということだ。「厳しい勝負の世界」と一般に認知されているプロ野球でも勝率7割も上げれば、歴史に残る最強チームである。たいていは、勝率6割あたりで、どんぐりの背比べのような優勝レースが繰り広げられているのだ。しかも、毎年リセットされて、再挑戦可能なのだ。それに比べて、一生かけての一発勝負、従って必然的に勝率は10割または0割。なんと厳しいことか。かくして、世の中にはその厳しさを紛らわせる様々なまやかしが用意される。「ゆとり教育」等と言うのはその最たるもので、悪く言うと現実から目をそむける訓練である。私がかつていた某社でも「人事制度改革」という言葉を何度聞いたか分からない。「事なかれ主義でなく、チャレンジする人を評価する」なんてお題目を何万回唱えても何の意味も無いのである。ゲームのマクロな枠組みが30年間じわじわと継続される椅子取りゲームである限り、どういう基準で次の椅子にありつける人を決定するか、というルール変更は大勢に影響を与えない。チャレンジして大きな成果を上げたからといって大抜擢は無いのである。そんなことをしたら、ゲームが30年間持たなくなってしまう。だから、必然的に、椅子の数は少しづつ、少しづつ減らされる。それに対応するためには本当にチャレンジして本当に成果を上げる必要なんか無く、隣の人よりちょっと上手にチャレンジのフリをすればいいのである。まあ、そうは言ってもまじめで正直な日本人の特性と、そこまでバカではない評価者のおかげで、そんなに醜い「フリ」が横行しているわけではなく、皆そこそこには頑張っているものの、このシステムが要求するチャレンジのぬるさと一度あぶれたら二度と敗者復活の無いルールによって、世の中から活力を奪うシステムとして機能していることは間違いない。
ではどうすれば良いかというと、いつまでもだらだらとゲームを続けている人に「試合終了」と告げてやることだ。処刑される筈が無い、とぬるま湯に使っている連中にはっきりと「本日死刑執行」と言い渡してやることだ。
これまた、例えが死刑だからと言って、「この世の終わり」を宣告しているわけではないし、リストラとかネガティブなもののみを指しているわけでもない。複数試合が行えるように、早めに結論を出すという点が大切なのであり、若い社長を大抜擢するような例も『死刑執行』には含まれる。社長を選ぶ程度のゲームに30年もかけないようになれば、ピークを過ぎた人に名誉職としての社長を数年務めてもらうのでなく、その人のピークパフォーマンスを長く発揮してもえるようになるのだ。その方が社会にとって、どれだけ得策か計り知れないと思う。一生かけて、一つのピラミッドを登ると思い込むから、どうしても一番大きなピラミッドに上りたくなる。これこそが、東京一極集中とかお受験とかの根っこにあるのだ。一生に一度の選択だと思うから、絶対に間違いの無い選択肢を選ぼうと躍起になる。いくつものピラミッドを渡り歩くのが暗黙の前提になっていれば、小さなところから登り始める人もいれば、東京以外の地元のピラミッドから登り始める人もいるようになる。
もちろん、死刑執行を待っている必要なんか全然無くて、死刑囚のパラドックスに気付けば、自分から行動を起こせばいいのだ。まあ、そういう人は徐々にではあるが増えつつあるようなので、心強いと言えば心強いのだが、その傾向が30代以下に限られるように思われるのが気がかりである。それ以上の世代が引退してしまうまで根本的には改善されないとすると、あと20年以上は優にかかるのである。そのシナリオはかなり寒い。

というわけで、いまいちオチがありませんが、死刑囚のジレンマの一席でしたm(_,_)m

トラックバック(0)

トラックバックURL: https://www.galileo.co.jp/mt/webapps/mt-tb.cgi/1404

コメント(2)

「わたしは、先のことなど考えたことがありません。すぐに来てしまうのですから。」と、アインシュタインは言ったそうです。

寒いなんて、上原さんらしくない。20年なんて、アッという間ですよ。もうすぐ、上原さんに知り合ってから20年が過ぎようとしてますね。(笑

> 上原さんに知り合ってから20年が過ぎようとしてますね。(笑
まだ16年です。もう、オリンピック一回分あります。こういうことは四捨五入しないように(笑)。

コメントする

月別 アーカイブ

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.2.3

このブログ記事について

このページは、ueharaが2004年2月15日 00:53に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「リスクと報酬」です。

次のブログ記事は「13歳のハローワーク」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。